先日、狭心症の疑いのため、再検査が必要となりました。
もともとビビりの私はもう怖くて怖くて、夜になると恐怖がますます大きくなり眠れないほど。
左胸の痛みもあり、もし発作が起こったら飲みなさいと、かかりつけ医よりニトログリセリンを処方されている状態でした。
思考はどんどん悪い方向に進みます。
動悸はずっと止まらない。
ある朝、聖書を読んでいると御言葉が強く私に語りかけてきました。
「わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば命の年月、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう」(箴言3-1・2)
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道をあるけ。そうすればあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3−5・6)新共同訳聖書
ここで、すーっと不安が消えていくような、体全体から力が抜けていくような平安を感じました。
そうだ、神でもなく医者でもない素人の自分の分別や思考で怯えて怖がるのは、傲慢で滑稽だ!!とちょっと自分が恥ずかしくなってきたのです。
主に委ねるということがやっぱりできていない!だから不安になるのだ。
さらに読みすすめるとまた御言葉は語ります。
「突然襲う恐怖、神に逆らうものを見舞う破滅におびえてはならない。主があなたの傍らにいまし。足が罠にかからないように守ってくださる」(箴言3-25・26)新共同訳聖書
そう、突然恐怖や不安が襲ってくるんです。考えないようにしようとしてもふと気づくとまた恐怖におびえている。
だけどおびえるな!!そばにいるから!!!と主に言われているようで涙が溢れてきました。
本当にそばにいてくれているように感じました。平安な気持ちに包まれました。
その日から、夜不安になりそうになっても、この御言葉を思い出すと平安な気持ちになれるのです。
「胸の痛みで起き、2時間くらいしか眠れなかったが聖書で平安を得たのが感謝。主はいてくださる!!」とその日の日記にあります。
心臓のエコー検査を受けている最中も、不安にが襲ってきたらまた御言葉を思いだす。するとふっと平安な気持ちに包まれました。
家族に励まされてはいましたが、人間の言葉はまったく耳に入っていませんでした。
検査の日の私の日記を見てみると、
「神がこの世をつくり私をつくってくださった。この世に何も持たず裸で生まれてきた。何もかも与えられて生かされているだけ。この肉の体がもしなくなったとしても、私は文句を言える立場にはない。
この世にある物質は何も持たず、肉の体さえ持たず、神のもとに帰るだけ。」
とありました。
それだけのことなんだと聖書を読んでいると思えてきました。
検査結果はというと異常はなく、様子をみてみようということになりました。
それでも痛みや動悸・不整脈は今でもおさまっていないけれど、まずはもうあまり考えずにちょっとゆっくり休むことにしました。
イエス様は私の一連の慌てぶりに「なんと信仰の薄いものよ」と笑ってらっしゃるかもしれない。
あまりに私が思いつめているので「おびえるな!!ちゃんとそばにいるから!!!おまえの浅はかな分別で右往左往するな!!」と語りかけてくださったような気がしました。
これからもきっとまた不安になることはでてくるでしょう。
ずっと聖書を読み続けておこうと強く思いました。
ほんとに聖書の学びは私達の魂を豊かに成長させてくれるので心からおすすめです。